高松市
続古寺巡礼その56 国清寺
12月19日、町中に出かけたついでに国清寺に寄ってみる。
この寺は岡山藩主池田家の菩提寺で、かつては大寺であった。
ただ池田家の菩提寺と言っても、池田家のちょっと複雑な歴史を反映していて、この寺を菩提寺としているのは岡山藩主ではない池田輝政とその長男の利隆である。
池田輝政は徳川家康の娘を妻としており、外様でありながら家康の信任が厚く、関ヶ原の戦いの後播磨52万石の太守となり、別に次男忠継には備前、3男忠雄には淡路が与えられるなど、一族で100万石近くを領して西国将軍と言われた。
輝政、利隆の後を継いだ播磨の池田宗家の光政は幼少であったことを理由に鳥取に移封となった。
その後今度は岡山の池田分家の跡取りの光仲が幼少であることを理由に、岡山と鳥取で国替えとなった。
結局、岡山が池田宗家、鳥取が池田分家となり、明治まで続いた。
この寺は池田利隆(幼少の藩主忠継に代わり岡山で執政に当たっていた)が建立して法源寺と称し、その後淡路の忠雄が忠継の後を継いで岡山藩主となった際に寺名を龍峰寺と改め、兄忠継の菩提寺とした。
さらに光政が鳥取から岡山への移封された際に寺名を国清寺と改め、祖父輝政と父利隆の菩提寺とし、忠継、忠雄の菩提寺は清泰院として分離した。
戦災により本堂他を焼失し、戦後の都市計画でも寺域を狭められ、新京橋架橋の際に清泰院は岡山市南部の浦安へ移転となった。
戦災を免れた山門は、唯一かつての大寺が忍ばれる風格がある。(写真1)
本堂は戦後再建されたもので、入母屋造りの大きな建物であるが、残念ながら鉄筋コンクリート造り。(写真2)
戦災を免れた建物として、大愚堂(写真3)と鐘楼(写真4)がある。
大愚堂は禅堂であり、鐘楼の梵鐘は市の指定文化財となっている。

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